2019.5.5

大学受験して、北欧旅行して、教育のスタイルを探る仕事に就きたいと思った話

神戸市外国語大学 インターン

伊藤鴻志郎


こんにちは。

神戸市外国語大学イスパニア学科3回生、伊藤鴻志郎といいます

未来電子テクノロジーでインターンをしています。

将来、新しい教育のスタイルを探る仕事に就きたいと考えています。

いきなり、宣言をしてみました。

友達からは「将来の夢、もうそんなにはっきりしてるの」とか「まあ、やりたいことなんてその時々だよな」なんて言われます。

しかし、こう思うに至ったのには、ちゃんとした訳があります。

今回のブログには、僕が教育に関心を持ったきっかけと、これからのアクションについて書こうと思います。

かなり長くなってしまいました。

僕が教育に関心を持ったきっかけの一つが、高校生活と大学受験です。

□勉強と縁のなかった高校生活

僕の高校は、長野県にある普通の公立高校です。

県内では中の上くらいの偏差値の、いわゆる自称進学校です。

高校生活の勉強面では、僕は落ちこぼれていました。

というか、どうしても勉強と向き合う気になれませんでした。

学校の授業がおもしろくなかったのです。

大半の授業が、教科書の内容を先生が音読して、要点を黒板に書き、生徒がノートに書き写すだけ、という「教師じゃなくてもできる授業」でした。

授業のおかげで好奇心がそそられるということも、ほぼありませんでした。

勉強が「つまらない」と強く感じるようになり、次第にそれが「嫌い」に変わっていきました。

「こんな授業、受ける気になれない」という言い訳が通用するはずもありません。

授業への参加を辞めた僕の学力は、ぐーんと落ちていきました。

高校3年生の6月、受験の天王山と言われる夏休みの2カ月前。

当時通っていた予備校の、6月全統センター模試の結果が返ってきた日でした。

予備校の先生の表情が、凍りました。

全体の得点率が50%、得意だと思っていた英語も200点満点中98点。

予備校の先生は、学習に対する意欲の低さが僕の根本の問題だと見抜いていました。

「今日はペン持たなくていいよ。その代わり、本気で行きたい大学探して。」

弁解のしようもなかった僕は、言われたとおり、その日を大学探しに費やしました。

そこで見つけたのが、神戸市外国語大学です。

関西に進学したい、数学を受けなくていい、女子の比率が高い、などなど。

僕にとって魅力的なポイントが、山盛りでした。

とはいえ肝心の英語の点数ですら勝負にならないのでは、神戸市外大など雲の上の存在です。

しかし、あり得ない目標に、かえってやる気が燃え上がりました。

高校生活の最後にようやく、勉強と真剣に向き合うことにしたのです。

□あれ…勉強楽しくね?

まずは、とにかく英語を伸ばさなければいけません。

目を付けたのは、音読でした。

英語教育のプロは、みな口をそろえて「音読やれ!」と言います。

しかし僕の高校では、それほど音読学習が定着していません。

これは、一気に英語を伸ばすチャンスかもしれないと感じました。

騙されたと思って、音読漬けの日々を始めたのです。

すると、ギャグみたいな勢いで点数が伸び始めました。

英語のプロの言っていたことは、本当でした。

6月の模試で98点を記録してから二カ月音読をやり続け、8月の模試で英語は159点を取りました。

(一瞬59点に見えて、変な汗が噴き出しました。)

右肩上がりのグラフというものは、見ていて気持ちの良いものです。

そのグラフがやる気の着火剤になり、他の科目の点数も伸び始め、それが再び着火剤に…という、理想的なサイクルを生み出しました。

そのうち、暗記系科目を自作クイズブックにしてみたり、暗記カードをちぎる感触が癖になったりと、勉強をさらに楽しいと思えるような創意工夫をこらすようになりました。

それが功を奏して、センター本番は英語198点、得点率86%を獲得できました。

学校という教育機関を離れたからこそ

やる気と好奇心、そして面白い勉強法が生まれ

人生で最も、勉強と上手に楽しく向き合えた経験になりました。

 

受験体験記の結論です。

何事も、楽しいと思えるものは、伸びるのです。

とりあえず当たり前のことを言いましたが、ここからが重要です。

僕は、実は学校が「勉強は楽しくない」という“前提”を作り出しているように思うのです。

□勉強が楽しくなくなるメカニズム

まず、勉強というものについて前置きをしておきます。

勉強は「楽しくないもの」ではありません。

そもそも昔、勉強は「趣味」でした。

労働を奴隷階級に任せるようになった貴族階級の、有り余る時間の使い方の一つでした。

専門家だけが知っていた知識を一般人も得ようとしたのが、最初の勉強です。

つまり昔は、勉強は贅沢で楽しくて、やりたいからやるものでした。

現代においても、僕が大学受験で勉強を楽しいと感じました。

また、社会に出た後や仕事を引退した後に、勉強を求めて再び大学の講義を受けに来る方々もいます。

昔の貴族と同じように、勉強を趣味にカテゴライズできれば、現代においても勉強を楽しいと感じることができるのです。

では、現代の子供たちは、どうでしょうか。

いまの子供たちにとって勉強は趣味ではなく、義務です。

ただこればかりは、仕方がありません。

社会において「学力」がハンディキャップになりうるからです。

自分の将来の可能性を広げるため、子供たちは勉強をしなければなりません。

しかし、押すなと言われたボタンは押したくなります。

それと同じように、やれと言われた勉強はなぜかやりたくなくなるのです。

さらには、おもちゃや遊び、その他の趣味といった勉強より魅力的なものも、子供が大きくなるにつれて山ほど出現します。

こうして、次第に子供たちは勉強に魅力を感じづらくなっていきます。

学校は、子供たちに勉強を教えるための機関です。

子供たちへの勉強の魅力の有無に関係なく、学校は子供たちに勉強をさせなければなりません。

そこでやむを得ず、学校は勉強を「楽しくないこと」として暗に認めることにしてしまったのだと思います。

そして、それに我慢して取り組んだ子供を評価するという評価基準にします。

これにより、勉強の義務の色が濃くなります。

教える側の立場にとって、勉強を義務化するのは非常に効率の良い指導方法です。

趣味、つまり「やるもやらないも人の自由」であったものを、共通の義務にすることによって、その人が勉強に魅力を感じるか感じないかという個人的な要素を考慮する必要がなくなります。

そうすると、個性も様々の生徒全員にまとめて「楽しくなくてもやりなさい」と言うことができるのです。

さらに、子供は大人に褒められたい生き物です。

我慢してやり通した子供を教師が優先的に褒めるようにすれば、勉強が苦痛であってもやり抜くような子供たちが育ちます。

このような評価基準の環境で育った子供には「勉強(義務)は楽しくなくてしょうがないものだけど、頑張ることに意味があるのだ」と考えるようになります。

学校という環境で「優等生」だった人ほど、より強くそう考えるようになるでしょう。

僕は、このような固定観念はかなりまずいと思っています。

義務へのアプローチを模索することを、無意識に諦めてしまうからです。

僕がまずいと感じるのは、子供たちが苦痛に耐えなければならないことではありません。

困難な課題は、人間の成長において必要不可欠です。

そうした苦痛から逃げてばかりでは、ただのダメ人間になってしまいます。

そこではなく、「義務(勉強)は楽しくなくて当然という思い込み」が問題です。

この思い込みは、子供たちが大人になって社会に出た後、恐ろしい影響を及ぼします。

□幸福度高め旅行

今年の3月中旬、12日間かけて彼女と北欧を回るという、贅沢極まりない「初海外旅行」を経験しました。

具体的には、フィンランドからバルト三国を巡り、デンマークに至るコースです。

急に何の話や。と思われるかもしれません。

しかしこの旅行が、教育に関心を持ったきっかけの二つ目の出来事です。

北欧の国々は、現在の「世界幸福度ランキング」においてトップクラスです。

世界1位のフィンランド、2位のデンマークを始め、今回訪れた国々がトップを占めています。

幸福度58位を誇る日本から来た僕は、より一層その幸福度の高さを実感しました。

たとえば、電車の中で赤ん坊が泣きだしても、誰も冷たい視線をくれたりしません。

お土産屋さんで、商品を楽しそうに紹介しますが、決して無理に売り込んできません。

(自分の作った商品がいいモノである自信を持っているようでした。)

日本での生活より、人々の振る舞いや心に余裕を感じたのです。

ですが、一番大きな衝撃を受けたのは、日本に帰ってきてから目にした光景でした。

関西国際空港に降り立ち、9時くらいの電車に乗って家に帰る途中のことです。

電車に揺られるサラリーマンの姿が、ものすごく暗かったのです。

仕事という義務に「耐えて」いる姿でした。

これは、日本の電車では、わりと普通の光景かもしれません。

しかし、幸福度高めエリアの電車の光景は違いました。

北欧の人には、切迫感が無いのです。

それぞれが、ゆっとりと自分の人生を送っていました。

もちろん彼らにも「やらなければならないこと」はそれなりにあるでしょう。

それでも(その上で)、楽しく生きている雰囲気が感じ取れました。

そういった環境を体験した直後だったこともあり、かなり強烈な印象を受けました。

□幸福度の差はどこにあるのか

では、旅の帰りに目にした「日本じゃ普通の光景」は、どうして生まれたのでしょう。

ここで、前に述べた「義務は楽しくなくて当然」という思い込みについて考えます。

学校では、義務は勉強でした。

社会に飛び出した途端、義務的な存在は勉強から仕事に変わります。

かのサラリーマンたちは、毎日の仕事がしんどいことを、かつて学校での勉強がしんどかったのと同じように、受け入れてしまったのではないでしょうか。

「そういうもんだから」と、改善策を考えることを放棄してしまったように思います。

仕事は、社会に出た後の人生の軸となる存在です。

仕事が楽しくなければ、人生の楽しさも少なくなってしまうことは、まだ学生の僕も想像がつきます。

学校で、義務にただ耐えることが体に染みついてしまった子供たちは、大きくなって社会に出た後も、義務にただ耐えることを受け入れてしまうのです。

□僕の教育論

ここまで長々と、僕が感じる教育の問題点を述べさせていただきました。

不快な気持ちになった教育関係者やサラリーマンの方がいらっしゃったら、ごめんなさい。

ここから、僕の目指す教育の話をします。

子供たちに必要なのは「勉強は大変で楽しくないけど、仕方がない」という諦めではありません。

「大変なことはやらなければいい。」という逃避でもありません。

「楽しくないと思うものを、なんとかして楽しくできないか?」という、想像力です。

僕は、勉強や仕事などの義務は楽しくない、という潜在的な前提が作られていると考えています。

大学受験を経て、楽しいと思えることは伸びることが分かりました。

勉強や仕事は楽しくないのではありません。

それらから逃げることも、よくありません。

それらを楽しくする方法を考えるべきです。

楽しくない義務を自分で楽しいことにできれば、楽しいことだらけの人生になりませんか。

楽しむための想像力を育めば、日本の教育の質と国民の幸福度を高めることができると考えています。

脳内お花畑のようなアイデアに聞こえるかもしれませんが、本気です。

□イベント、やってみます。

これだけ熱く語っておいて、じゃあ文科省の皆さん頑張ってください、ではいけません。

僕も、僕なりの方法で、教育の理想を実現してみたい。

というわけで、今年中に「遊びで学ぶ」をコンセプトにしたイベントを創ってみます。

まだ計画段階なので長くは書けませんが、子供たちに「楽しくないはずの勉強が楽しかった経験」を残せるようなイベントにしようと思っています。

その経験がもとになって、子供たちが困難にぶつかったときに「これ、あのときみたいに楽しくできないかな」という発想の転換ができるようになってくれれば、こちらも万々歳というものです。

一国の教育を変えるのは、簡単なことではありません。

ですが、一歩ずつ行動して、自分の考えを少しづつ形にしていくことはできると思います。

学生のうちに、できるだけ理想を現実に近づけてみたいのです。

自分の理想が正解なのか、脳内お花畑の誤解なのか、そもそも正解なんて無いのか。

それも、行動すればわかると思います。

まず僕自身が、楽しく教育に携わっていきたいです。

こんなに自分語りを繰り広げたのは、初めてです。

長々とお付き合いいただきありがとうございました。


この記事を書いた人

神戸市外国語大学インターン

伊藤鴻志郎