2018.4.18

自由に近づくための「絶対的価値観」

立命館大学 インターン

服部秀樹


皆さんは「自由」ですか?

または、「自由」になりたいですか?

 

僕にとって「自由」は幸福の指標です。

自分は「自由」であればあるだけ、幸せになっていくと考えています。

「自由」は自分の価値観に一番密接に関わる言葉だと思います。

 

自由とは?

 

「自由=自分がしたいことができること」

だと自分は考えています。

おそらく大抵の人の解釈はこれで問題ないと思います。

 

さて、あなたは自由ですか?

 

本当に好きなことしてますか?

 

ほとんどの人が抱えている相対的価値観

 

僕は特に日本ではこの自由の度合いは低いと感じています。

大体の人が同じような趣味や、将来の理想像を抱えている気がします。

 

自分がそれを実感できたのは高校生の時でした。

自分は周りで「流行り」の内容に自分もキャッチアップする努力をしていました。

 

例えば、周りの話題についていくために、流行っている「退屈な」ドラマを毎週見るなどです。

 

当初はそれは特に苦ではありませんでした。

それはおそらく自分が「流行り」を作り出し得る立場だったからです。

 

自分で言うのは恐縮ですが、中学2年生までは自分は運動も勉強もめっちゃできる方で上に述べた「流行り」を作り出せる立場だったからです。また、会話の中心で居れたので違和感を感じていても、不快に至るまでではありませんでした。

いわゆるスクールカーストの上層部に位置していたのです。

 

よって、それなりに気持ちよく学校生活を送って行ったのですが、中学校2年生に入ると病気にかかってしまいました。その後に一年半の入院生活と入院中を含めると約三年間の投薬生活が始まりました。そこから高校に入る頃には、勉強もスポーツも周りと比べてて全然できなくなり学校での発言力がなくなりました。つまり、スクールカーストの下層に位置したのです。

 

当時の自分には、下層に位置してしまった自分に対して価値が見出せずに悩んでいました。とても辛かったのを覚えています。ここで学校のコミュニティーのヒエラルキー構造を客観視することができたと思います。

 

コミュニティーはピラミッド上にできていて、上層部にいる人がやりたいことや面白いと思ったことをそれより下層にいる人がそのコミュニティーから外れないようにキャッチアップしていくものだと考えました。

 

自由に振る舞えるのは、コミュニティの上層部にいる人、つまり学校に運動ができて外見がよくて運動神経がいい人なのかなと思いました。

その当時感じた生きにくさ(不自由さ)を解消するには、相対的に優れているスキルを身につけてコミュニティの上層部に位置するようにすることが必要だと考えました。

「勉強やスポーツなど多くの人が取り組んでいうフィールドで優れたスキルを身につける」、ないしは、「周りがまったく手を出していないようなフィールドで頑張って特徴的なスキルを身につける」ことが必要だと考えました。

自分は投薬治療がまだ少し続いていたので、超ビハインドの中同じフィールでは勝てないと考えたので、後者を選び高校二年生に上がる時に料理の道に進むことに決めました。

 

しかし、上記のいずれの二つの方法では本質的な自由になれないことが最近わかってきました。

 

いずれも本当に自分がしたいことをしているのではなく、相対的な立ち位置を気にして行動しているからです。それではいつまでもやりたいことをできるようにはなりません。

 

こういった相対的な価値基準への固執から脱するのに必要なのが、「絶対的価値観」で行動していくことです。

 

 

絶対的価値観で行動するためには?

 

僕が思う絶対的価値観で行動しておくためにするべきことは二つあります。

 

まず一つに、他人と競争しないことです。

 

何かを始めると、自分の存在意義を自分自身で確かめるために人と比べたがります。

学校での例を挙げると、テストのために頑張って勉強したのに友人Aに勝てなかったとします。その時、人はものすごい傷ついて、自分が勝てなかった理由を何かのせいにしたり、もしくは自分のもっているなにか他のスキルを挙げてきて、「自分」の価値を必死に自分自身に示そうとします。

 

確かに、自分に相対的に優れているものがない状態は非常に怖いです。

自分も高校に入った初めの頃はものすごく怖かったです。

「こんな自分に価値があるのだろうか?」

「こんな自分を誰かが相手にしてくれるのだろうか?」

毎日自分に問うていました。

 

しかし、この「裸の状態」の怖さに勝てないことには自由になることはできないと思います。

なぜなら先ほど述べたように他人からの評価を基準に行動してしまうからです。

 

ではどうやって、「この怖さを克服すればいいのかについて」という疑問に対する暫定的な自分の答えについて別に機会に詳しく書こうと思います。

 

自由に行動するためにするべきことのもう一つは、失敗することを恐れないということです。

 

失敗するのがものすごく怖いというのも、異様に相対的な自分の立ち位置を気にするあまり生まれてしまうものだと思います。自分が本気でトライして失敗したら「自分は可能性のないものとして見捨てられてしまうのではないか?」そして「自分の価値がなくなってしまうのではないか?」と考えてしまいます。

 

失敗する恐怖を克服することが、自由になるために必要です。

 

 

絶対的価値観を築く際に陥ってしまうこと

 

絶対的価値観を持つには、先程述べたように怖さを克服しなければなりません。

この怖さを乗り越えずして、自由になろうとしてしまうために陥ってしまいがちなことが二つあります。

 

その一つが、他者を無視することです。

自分の価値を守ろうとするあまり、相手を故意に見ようとしないのです。

素直に相手の価値を認識できなくなります。

 

例えば、おしゃれに気を使っているAさんがいるとします。

そして、多くの人からおしゃれと言われているCさんがいるとします。

Aさんにあたる一定数の人はこのおしゃれなCさんを素直受け入れることはできません。なぜなら自分の方がおしゃれと感じており、Cさんを受け入れることによって相対的な自分の価値が下がってしまうのが怖いからです。

おそらく、多くの人はこのCさんの人を「プライドが高い人だ」と簡単に片付けてしまうかもしれませんが、僕の認識はちょっと違っていて、このAさんは自分の相対的な価値を気にしすぎているので相対的に自分の価値が下がり、自分が傷ついてしまうことに異様な恐怖を感じているのだと思います。

相対的価値、それはそれで存在していて、意識することも大切です。相対的価値観と絶対的価値観は異なっており、極端にいずれかによってしまうのは危険です。

このAさんに関しては、恐怖に負けて絶対的価値観に固執している状態です。

 

もう一つが、「他人を殺し」てしまっていることです。

これも本質的には上記に挙げたものと同じだと思っています。

相対的価値観に従い身につけたスキルは、絶対的価値観に従って身につけた価値観より”努力”を要します。「自分がやりたい」で始めたものは楽しいですよね。一方で、自分の価値に懐疑的になり必死にスキルを身につけていった人はそのスキルを武器のように振り回し、他人を殺してしまうのです。

自分を守るために。

なぜなら、その人の身につけたスキルは、文字のとおり「武器」だからです。

自分の相対的立ち位置(価値)に懐疑的になり、自分の存在意義を疑った人は、その存在意義を認めてくれないだろうと勝手に自分が判断した周りの人が敵になってしまいます。

あなたにも「俺(私)はこんな武器(スキル)を持っている!」と口にしないまでも、心の底に構えて相手を受け付けられないなどが起こっているかもしれません。高学歴の人が低学歴の人の言うことを受け入れられない、もしくは受け入れる気がないのがこの例に当てはまると思います。これは単純な例にすぎません。

この状態が起こってしまっている人はめちゃめちゃ多いと思います。

以上です。

という自分も、人比べて評価が下がるのが怖かったり、失敗が怖かったりして自分の考えをこういった場でアウトプットすることを避けてきました。

 

今回は伝えたいレンジが広すぎて、詳細に欠けて伝わりにくい文章になってしまったかもしれません。また、ユーモアにも欠ける内容で伝わりにくかったかもしれません。

 

今後は上記の点を改善してこのようなアウトプットを増やしていこうと思います。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

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服部秀樹