2015.6.16

あまりに客観的すぎるブログのクソカテゴリーについておもうこと

代表取締役社長 インターン

福本 真士


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ブログのカテゴリーはどうあるべきなのか?

今日は人間の「intention(意図)」ってなんだろうって話をしてから、実例としてブログのカテゴリーはどうすべきかということを考えます。

なんでこんなテーマなのかというと今作ってるプロダクトが、このintentionをキャッチして料理するために全力を注いでいるからなのです。でも課題にぶち当たりまくり。

例えば一週間後に会う人はどんなことを考えていて、どういう方向に進むのか、また実際どんな行動計画をたてているのか、さらに自分と似ているのか似ていないのかが正確にわかったとしたら、世界はどう変わるでしょうか。

少々ストーカー的ではありますが、そこがもっとスマートに実現できるとしたら一旦は目先のWHATから意識をずらせるようになり、今に集中できることが自分の中に何かしらのintentionをグツグツと生じさせます。

そしたら、自分の今日の行動を変えてしまうほどのパワーが生まれると僕は考えています。
 
 

それってなんかタイムマシンっぽいなと。おもしろくないですか。

 
 
つまり、見えない将来についてウジウジしながら待つのではなく、見えないことをある程度見える化し無駄なエネルギーを消費しないことで、アグレッシブに今に集中しながら生きられるんじゃないかと。

そんなことを考えていると開発以外の場所でも、intentionってなんなのかってことが気になり過ぎてくるんですよ。
 
 
例えば、いま読んで頂いている未来電子ブログのカテゴリーにも違和感を感じてます。intentionの所在が不明という違和感です。ものすごく客観的なカテゴリーだなと。NEWS、社長ブログ、社内風景。

これを作った人を批判する話ではなく、単に自分がいままでここに気づいていなかったことにすごくイライラします。

これらカテゴリーを見ても沸き起こってくる感情はなく、結論から言えばもっと主観的で動的なカテゴリーから始めなければいけないのではないかということ。
 
 

価値がある客観ラベルとはどこから生まれるのか?

 
 
はじめは一個人の主観にはじまり、そこに同じような感情を持つ人が集まって、それが当たり前になって客観としてのラベルがつく。

はじめて起こることにはラベルをつけられなくて当然。だからどうしてもはじめは主観的になる。

人が集まって経験がたまった時にようやく対象を分けるべきという価値が生まれ、そこではじめて動的に変化し続けた主観が客観として成立する。

つまり客観とは大多数の主観が集まってから出来上がるので、カテゴリーの本質とは主観の集合でなければ成立しない。

となれば至極客観的でintention濃度の低いカテゴリー分類を仮説として初期段階に施すことは、実はメディアとしては遠回りをしてしまっているのではないかと考えたのです。

例えば、コミュニティの中の人間から見れば当たり前のブログでも、コミュニティ外の中の人から見たら「こいつらこれ正気でいってんのか?」ってことは往々にしてあります。

そこを理解して書いているのか書いていないかで、このブログを読もうというintentionも変わるし、ブログを読んでいる時の感情も大きく変わります。結果これらの要素が掛け合わさると満足度にも大きな影響を及ぼすようになる気がしています。
 
 

いまは感情が高ぶってるからいい感じに見えるけど、冷静に見たら気持ち悪いかもしれないカテゴリー

 
 
とかあったら読みたくなりますもんね。
 
 

誤字脱字多いな!って思わず声が出たカテゴリー

 
 
とかも読みたい。誤字脱字が来るたびに笑えそう。

などなど。

要は自社でやってるオウンドメディアであっても、ひとつひとつのブログに潜んでいるintentionをキュレートすることで、それ自体がコンテンツ化していくのではないかってことが言いたいこと。

では具体的にそのintentionはどうやってキャッチするんだよって話になる。

これを直接解決することができるUIを導入しているメディアはまだ見たことがない。
 
 

誰でもカンタンに使える主観を動的にキャッチするためのUI

 
 
それだけintentionのキャッチは難しいことからこそ、intentionってなんなんだろうってことに悩まされる。

そしてまた反対に一筋縄ではクリアできないこの分野にチャレンジするのもまた楽しそうという欲求に惹かれるんだろうな。


この記事を書いた人

代表取締役社長インターン

福本 真士