関西の長期インターン実績NO.1の未来電子テクノロジー

HOME > BLOG > 等身大の自分で戦うことを決めた時に考えておくべき「幸せ」と「死」について

blog001

自分の中に凝縮したエネルギーを糧に死と戦う

誰かを幸せにしたいってよく聞くけど、こと自分においては感覚がズレているように思う。

僕の中で幸福状態とは死の対極にある状態で、最も生産性の低い状態のことであり、反対に死に直面している状態は生産性が最も高くなりパフォーマンスが上がる。そんな幸福状態ではパフォーマンスは低く誰かを幸せにできるわけもなく、幸福の対象相手が多少しっかりとした意思の持ち主であれば単に自己陶酔に浸っている気持ち悪い状態にしか見えないだろう。

しかし、幸福の対象相手がまともな意思を持ち合わせていない場合は、その気持ち悪い状態が相手にまで染み込んでいき宗教ができ上がる。宗教とは自由意志の放棄であり本来的な幸福がそこにあるとは思えない。

恐ろしいのはたった1つの軽い妥協がハリボテの幸福状態を作り出し、その境界の中で起こる現象に次々にラベルを貼っていて、気づいたときには快適な生活環境が出来上がっている。つまり質の悪い生活環境が。誰かの評価を求め、他人の感情に一喜一憂し、日増しに自分が小さくまとまっていく。

そこにクオリティは存在せず搾取されるのを待つだけのブドウと同じ。一粒一粒もぎとられ気づいたときには細い枝分かれした棒状態。そこに自分の価値は積み重なっておらず毎日毎日代わり映えしない朝を迎えて活動することになる。そこまでいってしまうと二度とそこからは抜け出せない。

でもそれはそれで相対的に見たら幸福なのでは?

と思ってしまうこともわかっている。それがまさにゴミの思考。相対的幸福なんてものは共産主義のまやかしであり本質的幸福の放棄である。1つ絶対的な惨事が起こった瞬間にすべてのまやかしが崩壊し、その時に生き残るのは常に絶対的な幸せを追い求め続けている人間だけ。そんな甘いことを言っていてはいつまで経っても真理に到達できない。

この状態を回避するためには幸福についての3つのことを理解する必要がある。

まず1つ目は妥協では幸福度を上げられないということ。妥協とは視点を下げることで得られる一時的な幸福であり、最も忌むべき行為。何の気なしに妥協したことが以後無意識のうちに雪崩式に大きな妥協を生み出し、気づいたときにはクオリティとは無縁のリビングデッド状態。

そして2つ目に常に死に近い選択肢を選ぶこと。死に近い選択肢を選ぶとその瞬間からパフォーマンスが最大化する。パフォーマンスが高ければ高いほど本質的幸福に早く近づくことができる。当然、死に近い状態は常にしんどいので到底幸せとは言えないが、精神的死であるリビングデッドを回避するためには、まだ死んでいないうちから死と向き合って戦うしかない。

最後3つ目に、幸せが固定化されることは一生ないということ。さきほど絶対的な幸せを追い求めると書いたので普通に考えたら矛盾する。だから考え方としてはこうだ。いまの幸せな状態は必ずなくなる。だから例え幸福感を感じてもその幸せな状態を周りには大きく見せず、謙虚に、自分の中に凝縮して、さらなるエネルギーに変えることでまた一段と大きなエネルギーを生み出していく。そのエネルギーに満ち溢れた状態こそが幸福なのではなかろうか。

幸福と死は対極にあるからこそ一生交差することがないともいえ、表裏一体でもあるといえる。どちらか一方ではなくそのすべてが自分であると認識すれば、たかが瞬間の幸福に一喜一憂せずとも常にパフォーマンスが高い状態でいられるので、強さも弱さも受け入れて「超人」になろう。

ネーティネーティ、NO DISGUST, NO LIFE

あなたの清きコメントもお待ちしております!

,

この記事を書いた人
福本 真士
福本 真士

代表取締役社長/CEO

この人が書いた記事を見る≫
Copyright MIRAIDENSHI,Inc All Right Reserved.